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新作路 3月

2010年3月1日 252号
sinjanglo館の実践の喜怒哀楽や想いを表そうと創刊号依頼このコラムを設けてきた。▼新作路(韓国語でシンジャンノ)とは、読んで字の如く新しい路(・道)を意味しているが、この道はむかし開墾した農地に村人が総出で道を作ったことから生まれた言葉である。平坦な作りやすい道もあったであろうが崖を崩し、道なきところに道をつくるとても困難な作業でもあった。そうした営みは館の実践にも似ていると思いつけた名である。▼想えば、開館以前の地域実践がめざしていた民族差別の克服、民族主体の構築というのは、虐げられてきたことへの反動とも言えるものであった。それだけに渇望した想いが強かった。奪われたものを取り返す、失ったものをつくりなおす、学びなおす営みは平坦なものではなかった。▼その頃の時代には、民族や国はあっても、個人は無かった。そうした時代のなかで個人が踏みつけられ無視されてきたことへの疑問があった。▼そうしたなかで気づかされたことがあった。悔しい思いや悲しみを抱えているのは自分たちばかりではない。困難にぶつかり、それと格闘している他者の姿に気づき励まされ学ばされると同時に視野を広げることの大切さを知らされた。▼開館以降の実践にはそうした想いが不揃いにさまざまに噴出してきたが、それぞれがやりたいことをできることから積み上げていく他なかった。そうして開館4年後に生まれたのが「誰もが力いっぱい生きていくために」というスローガンであった。このスローガンは20年経った今日でも変わりない。館の実践が続く限りの終わりのない永遠のスローガンであろう。▼「共に生きる」という言葉も実践と運動のなかから実感として生まれた日本社会へのラブコールであった。▼そして、「誰もが」の中味は時代とともに変化し続けるであろうし、変化しないまま継続される中味もあるであろう。肝心なのはその中味をどう認識するかである。認識の結果の実践も容易ではない。でも積み上げていくしかない。▼新作路は舗装道路ではない、ぬかるむときもあれば乾きつづけて土埃が舞うときもある。大小さまざまな石ころが埋まりけして歩きやすい道だけではない。しかし、やさしい土の香りがただよい素足で歩くと気持ちのよい道もある。▼新作路はこうしたことの繰り返しの実践と実感のなかで創られる道である。私もその道を歩いてきた。(B)                 

 

かんだより 3がつ

2010年3月1日 252
今月のかんだより おもな内容
1面 朝鮮初級学校で紙芝居をしてきました/トラヂの会もちつき
ストリートダンスの練習をはじめました
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2面 子育て支援プログラム、小中学生プログラム、
中高生の活動などの予定
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3面 成人事業案内、高齢者事業プログラム(トラジ会など) pdf-btn
 

新作路 2月

2010年2月1日 251号
sinjanglo在日一世の足跡をたどる下関、九州の旅に同行する機会を得た。在日一世のひとつの象徴的な仕事である炭鉱労働を学ぶこと、上陸、帰国の地 下関で、海峡をわたる前後の状況を学ぶことが目的であった。現地でご案内いただいた方々が、すてきな方々ばかりで、歴史を風化させないための地道なとりくみに、多くの元気をいただいた。戦後帰国の経験をもつ二人、炭鉱労働の経験のある一名の合計三名のハルモニの懐かしい場所をいっしょに回った。▼筑豊を案内してくれた犬養先生が「人権というよりは、死人権」という言い方をされた。「慰霊碑は、単に魂を慰めるというよりは、亡くなられた方々の怒りや悲しみ、悔しさを想い、私たちが闘いを継承する場である」というようなことをおっしゃられた。本当にその通りだと思う。宇部長生炭鉱では、海底炭鉱の落盤で、一三〇名余の朝鮮人が犠牲となった。草むらの道なき道を分け入り、やっと坑道につながる階段があるのみで、空気取り入れ口の煙突状のビーヤが、海上に二本突っ立っていた。下関では、山の高台に帰国を待つ朝鮮人が暮らし、トイレもないのでみんな横道で用をたし、トングルトンネ(ウンコの横道村)と呼ばたという話を伺いながら、その一角を歩いた。現在の地は、まさしく生活文化資料館であった。筑豊、日向墓地では、無造作に置かれたただの石に、強制労働の末に命を落とし、さらにペット以下の扱いをされたまま「死人権」が放置される様をまざまざと見せ付けられ、みんなでアリランを歌い、死者の思いを受け継ぐ時をもった。▼どこもかしこも、案内してくれる人がいなければ、何もわからない場所ばかりである。りっぱな炭鉱博物館では、朝鮮人の「朝」の字もない。ほとんどの人が渡日して始めて踏んだ地である下関の関釜連絡船の港跡、駅跡は、旧山陽ホテルが取り壊し前のように放置されるのみで、表示のひとつもない。ハルモニたちが働いた炭鉱跡もすべて何もなかったかのように藪に包まれている。差別と戦争の時代を生きた在日一世の想いを受け継ぐ文化遺産が、朽ちていく悔しさ、風化していくむなしさを感じる。どんな想いで、ハルモニたちが下関を訪れ、炭鉱を訪問したのか、多くの在日にとって、日本の生活史の出発点、もっと言えば、日本の多文化社会を記したはじめの一歩の地ではないのか。▼植民地支配一〇〇年の今年、あらゆるチャンネルを通じて、ハルモニが山口、九州で味わった悔しさを表現したい。今なら、多くの犠牲者の前に 差別と戦争の歴史を繰り返さないことを後世に伝える場となってほしい。今ならやっと、まだ間に合う。(み)